日本の平安時代には、肌理(きめ)の細かい色白の肌、ふっくらした頬、長くしなやかな黒髪が典型的な美人の条件として尊ばれた。ただし、一定以上の身分のある女性は近親者以外の男性に顔を見せないものとされたため、男性はめあての女性の寝所に忍んで行き、ほの暗い灯火の下で初めてその姿を見るということが普通であった。化粧は、顔に白粉を塗り、眉を除去して墨で描き(引眉)、歯を黒く染める(お歯黒)といったもので、健康美よりはむしろ妖艶さが強調された。当時の女性の成年年齢は初潮を迎える12~14歳であり、30代はすでに盛りを過ぎた年齢とみなされていた。ちなみに、しばしば言及される引目鉤鼻は源氏物語絵巻等の平安絵画において高貴な人物を描く際に用いられた表現技法の名称である。六歌仙の一人である女流歌人小野小町は、絶世の美女であったとされている。
戦国時代に日本に30年以上滞在した西洋人ルイス・フロイスは「ヨーロッパ人は大きな目を美しいとしている。日本人はそれを恐ろしいものと考え、涙の出る部分の閉じているのを美しいとしている。」と、当時の日本人が大きな目よりも絵巻物や美人画に描かれるような涼しい目を理想としていた様子を記している。
江戸時代以来、日本では色白できめ細かい肌、細面、小ぶりな口、富士額、涼しい目元、鼻筋が通り、豊かな黒髪が美人の典型とされた(浮世絵で見られる女性は、当時の理想的な美人を様式化した作品である。詳しくは美人画を参照)。当時最も売れた化粧指南書『都風俗化粧伝』において「目の大なるをほそく見する伝」という項が存在し、目に関しては現在とは異なる美意識だったことを表している。井原西鶴の『好色五人女』には、低い鼻を高くしてほしいと神社で無理な願いことをする、との記述があり、当時鼻の高さを好んだ傾向が伺える。こうした美意識は、明治時代から大正時代に至るまで美人像の基調となった。
明治時代に入ると欧化主義とそれに伴う洋装化の動きが起こり、大正時代の関東大震災後からパーマネントや断髪、口紅を唇全体に塗るなど、従来の美意識と相容れないような西洋式の美容が広まっ。また、戦後の日本では、欧米戦勝国の影響を強く受けて、白人に近い顔立ちが美人とされ、白人の特徴である金髪や碧眼(青い目)が憧れの対象となった。
今日では雑誌やマスメディアを通じて化粧品やメイクに関する情報が広く共有され、白い肌・小顔・大きな目・二重まぶた・細長くて高い鼻・細くて長い脚・長身・痩せ型など、ファッションモデル産業と密接に結びついた審美観が普及している。また、プリクラや加工アプリなどの画像加工による美の追求も盛んに行われている。その反面、容姿の美醜が従来以上に女性の幸福感を左右するようになり、こうした傾向は摂食障害や美容整形への過度の依存など、身体的・精神的健康をむしばむ新たな問題を生じている。
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